カートイワークス グランプリ

【第13戦 カートイワークス グランプリ】フル開閉・フル可動化の伝道者・カーモデラー髙橋浩二氏

日本一のダイハードモデラーKen-1さんよりバトンを渡された「かっぱコーヂ」こと高橋浩二と申します。

現在、「モデルグラフィックス誌」「モデルアート誌」を中心にカーモデル・バイクモデルの作例を掲載して頂き、時々カーモデルの各部を切り刻んで開閉可動化する改造、いわゆる「パカパ化」するためのノウハウを詰め込んだムックを新紀元社様より発刊して頂いたりと言った模型振興活動を中心に個人や企業様依頼の模型製作も行い、それを原資に大好きなMR-2SW20)を維持、ジムカーナで楽しんでいます。

また、【第10戦 カートイワークス グランプリ北澤志朗さんの主催するクラブ「湘南モデルカー愛好会(S・E・M)」にも在籍させて頂いており、コロナ禍で自粛中ではありますが、毎月ミーティングで楽しく模型談義させて頂いていました。早くコロナ禍が収束して以前の様な交流が出来るようになることを祈念しています。

【幼少のころ~就職前】

公務員の父、専業主婦の母の元、1970年に次男として誕生しました。2歳ごろだったかな、川崎市の公務員住宅に引っ越してきて就職までその地で過ごすことになります。

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[5人家族の次男坊(右手前)]

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[弟の哺乳瓶を奪いご満悦の図]

物心つき始めたことは主要道路以外まだ砂利道が多く年齢と共に都市化が進み、住み易くなる一方で自然がなくなっていくのは一抹の寂しさも感じました。

公務員住宅は5階建て40戸の集合住宅が10棟建っていて、同じような年齢の子供達がたくさん。そのおかげで沢山の友達に恵まれ色んな遊びをして過ごしました。メンコやベーゴマを住宅の階段の踊り場で遊んだしていました。そしてご多忙に漏れず、スーパーカーブームの洗礼を受け、当時爆発的に流行した「スーパーカー消しゴム」をBOXYのボールペンでパッチンしながら階段ダウンヒルレースを楽しんだのでした。このころ、ちょっと裕福な友人はタミヤの1/12だか1/20のポルシェ910を買ってもらえて、これまた階段の踊り場で作るのを見させてもらってプラモデルの存在を知ったのでありました。(と言うかこの年になってもタミヤのビックスケールシリーズなかなか買う勇気が出ないので素直にうらやましい(苦笑))

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[本文とほぼ関係ない外でもガンガン遊ぶ子供でした。田舎の四万十川支流にて]


さて、プラモデルの存在と言うか、自分の手を動かして形を作り上げるというものに目覚め、学校帰りに立ち寄る文房具屋さんの一角にあったプラモデルコーナーで4個セットのスーパーカープラモデルアオシマの合体シリーズをしげしげと眺め、子供なりによく吟味したうえで月に一度のお小遣いを貰ったら一目散で狙っていたプラモデルを買って帰ってきたらすぐ作る。そしてまた一か月間悩み続けるルーチンを繰り返し繰り返しどっぷり嵌っていくのでした。

小学生の上級生にもなったころ、お小遣いも順調に増えていきと言っても600円/月程度なので、よく吟味しつつ手に入れるプラモデルを選び作る楽しみを味わっていました。ガンプラも本放映時から作り始め、真っ白のガンダムでは味気ないし、取扱説明書にランナーについた状態の塗装見本が載っていて、とても魅力的だったこともあり、塗装見本を見つつ筆塗りで塗装することを覚えました。とはいえ、塗り斑やはみだし、刷毛目は見えるしとても見本の様に綺麗に塗れるわけでもなく、今の自分のレベルで見たら、泥人形の様な仕上がりですが当時の自分としては今まで知らなかったテクニックを使う事で表現の幅が広がることに喜びを得ていたのでした。(後から振り返るので説明がつくけど、当時は只々楽しかったんでしょうね。)そうやって色々技を駆使してプラモデルを作っては近くのプラモ屋さんに持って行って飾ったりしてもらっていました。そんなこんなでガンプラを少ないお小遣いで楽しんでいたら、空前のガンプラブームが到来!それまではガンダムやザク等、人気のあるモビルスーツのキットをお店でじっくりと悩んで選ぶことが出来たのに、お店が開店する前に並んで、それでも目当てにしていたキットが買えない状況になってしまいました。そうすると作りたいものが作れないジレンマにガンプラへの興味が徐々に無くなっていき、いつでも買える1/700スケールの喫水線より上側を再現している艦船模型のウォーターラインシリーズや1/72スケールのゼロ戦等の第二次世界大戦関連のプラモデルに興味がシフトして、大人への階段を一歩進んだのでありました。

そんなこんなで小学校を卒業し特に勉強熱心でもなかったので最寄りの中学校へ入学します。クラブは仲の良かった友達が陸上競技部に入ったこともあって自分も入るもどの種目が良いのか中々決まらず、走り幅跳びや100m等チャレンジするも全然記録が伸びず最終的に1500mへ、ここでも記録は伸びなかったのですが、練習はみんな一緒にジョギングしたりインターバルトレーニングをするのでメンバーの一体感が心地よかったです。秋には学校対抗の駅伝大会が多摩川の河川敷で行われ、他のクラブの足の速いメンツも加え大会に向けて河川敷で練習するのも苦しくも楽しかったです。ここでも選手に選ばれることは3年間一度もなく選手のサポートでしたが大会終了後、学校に戻りみんなで食べたカツ丼がおいしかった記憶が残ってます。その頃は艦船模型や飛行機模型を作りつつ、親父の乗っていたCB250RSーZの整備につきあわせられているうちにバイクに興味が出てきてタミヤの1/12オートバイシリーズも作る様になってきました。塗装は相変わらず筆塗りがメインでしたが、外装部品が均一な色味に中々ならず、刷毛目が目立つことが気になるお年頃になっていたこともあって、徐々に缶スプレーを購入する様に。でも下地もろくに整えず、いきなり厚吹きするもんだから角部には色が乗らず、下側に塗料が溜まってしまう始末・・・・と、今の目線で思い出すとそう思うけれど、当時はやっぱり色々できる様になるのが楽しくて仕方なかった。大好きなオートバイが掌の上で形になっていくのがうれしくて、中学校一年の時のお小遣いが1000円/月、二年で2000円/月、三年で3000円(今考えると凄いベースアップ率(苦笑))と自由になるお金もうなぎ上りで充実の模型ライフが開かれていくバブルな中学時代でした。


そんな模型ライフを続けながら進学をしていくのですが、時は受験戦争と言われていた時代をまだ引きずっている最中で連日物騒なニュースが踊っていて高校に行ってもその先の大学受験を考えたら阿保らしいと考えていました。

自分「だったらさっさと就職してお金を稼いで自由に使えるお金をつかんだ方が良いんじゃね?

と阿保な中学生なりの考えを進路相談時に先生に伝えたら、先生が焦る焦る!

先生「だったら大学受験も無くて、就職率100%の素敵な学校があるからそこに行ってみないか?中学校卒業よりいい給料ももらえるぞ!

と、なかなか魅力的な提案を先生が提示してくれました。

恐ろしい大学受験もなければいい給料も貰えるなんてなんて素晴らしいんだと先生の提案を受諾して受験することにしたのは、工業高等専門学校(高専)。どんな学校かというと各県にほぼ1校しかなく、高校3年+専門課程2年=計5年を使い、通常の工業高校よりも深く突っ込んだ内容を5年間かけて学習していくマニアックな学校であります。非常に魅力的な提案をされた自分は第一志望を高専に、滑り止めに最寄りの公立高校を受験することに。運よく第一志望の高専に受かったので、晴れて高専へ通うことになったのでした。


そして希望に満ち溢れて入学直前の登校日に登校するとそれまで感じたこともない様なピリピリした空気感・・・・

教室に入ると先生の他、数名の先輩がいる。そして出欠確認が始まり名前を呼ばれ「はい」と呼ばれた新入生が答えると、先輩「声が小さい!やり直し!」とか始まる・・・

なんとバリバリ精神的体育会系な学校だったのだ!と気づいても、もう遅い(苦笑)。入学後も先輩の監視付きで一学期目は勉強ではなく生活指導や団体訓練という名のしごきに耐え、先輩へは絶対服従、規範を外れた行動には厳罰が下される恐怖の日々が始まったのでした。クラブ活動も強制的に参加することが義務付けられていて、中学校からの流れで高専でも陸上部に入ったのですが、年功序列の厳しい学校だったので先輩の言う事は絶対という雰囲気であまり楽しいという雰囲気ではなかったかな。それでも気のいい先輩や同期もいるわけで、なにより5年生の部長が良い人で1年生の前半は頑張って部活に勤しんでいました。高専のカリキュラムは高校+大学で習得することを5年間で詰め込むことを目標としているので授業時間は長く放課後、部活に参加すると学校から帰る時間はかなり遅くて慣れるのに大変だったこともあり、趣味の模型に割く時間は激減していました。その生活が一変したのは5年生の先輩が引退して4年生の先輩が新しい部長になった頃。新しい部長は良くも悪くもまじめで何でもちゃんとやろうと頑張る人。部活ももっと良くしようと考えたのでしょう、色々メニューやらなんやらが今まで以上に厳しくなってしまいました・・・・・

苦しくも楽しい何かが有れば続けられるのですが只々辛かったので、徐々に部活をさぼる様になって、他にも同調する同期が何人かいて、気持ちは「赤信号みんなで渡れば怖くない」理論が発揮されていたのかも。そしてそんな状況が一か月程度続いた頃に部長に呼び出され、

部長「やる気がないなら辞めろ(心の声は、ちゃんとクラブ活動に顔を出したら不問にするぞ)」

と言われたので

自分「あ、では辞めます。」

部長「ぽかーん」

と言う儀式を経た後、晴れてクラブ活動から解放されたのでありました。そして放課後の時間が空いた結果どうするかと言えば、模型製作の復活であります♪親父のバイク整備の手伝いも続いていたこともあって、自然と作る模型はバイクが中心に、手ごろに手に入るタミヤの1/12シリーズを中心に、このころもやっぱり筆塗り中心で作っていました。そんな中、高専の休み時間に友達と回し読みしていた週刊マガジンに掲載されていたバイクマンガの「バリバリ伝説」が面白くて虜になりました。このころ親父のバイクも何故かCB750Fに(巨摩郡のFBじゃなくてFZだったのはちょっと残念だった。)、そんなこともあってタミヤのCB750Fは沢山作り、高嶺の花である1/6ビックバイクシリーズのCB750Fも何とかゲットして作り始めました。ふんだんに施されたメッキパーツや軟質素材のシートやグリップ、金属挽物にメッキを施したフロントフォークインナーチューブがブリスターパックの中に収められていて超豪華な内容に興奮したものです。そしてそんな高級なキットを目の前に躊躇する自分。果たして今までの作り方で作って自分は満足できるのだろうかと・・・

その頃の模型指南はタミヤニュースが中心でそこから得た知識を自分の模型に試していくようなスタイル。1/6CB750Fには合わせ目消し(接着後、耐水性サンドペーパーで合わせ目を削り継ぎ目を見えなくする処理)と缶スプレー塗装による平滑且つラメが泳いでいない綺麗なメタリックレッドに仕上がった外装に満足したのでした。そして完成後もモリワキの集合管をスクラッチしたり、クリップオンハンドル・ナポレオンミラーをスクラッチして巨摩郡仕様のCB750Fに改修したりして徐々にただ作るのではなく思い描いているものへ改造する楽しみも覚えていくようになりました。そして調子に乗った自分は近くの模型屋さん(ピットロード東名)のコンテストに作品を持ち込むことに。エッシーの1/24ミウラをベースに外装をイオタSVRにフロント・リヤカウルを開閉可動出来るように改造しフジミエンスージアストシリーズの家運タンクのエンジンを仕込んだ作品を制作しました。作品はみごと銀賞に輝き更に調子に乗った自分は池袋東武で開催されているタミヤモデラーズギャラリーのコンテストへ挑戦を始めました。まずはヤマハYZR500(OW70)をプラペーパを細切りにしてタイラップバンドに見立てたり透明チューブをスパイラル状に切ってブレーキホースの周りに巻いてみたりと自分なりにディティールアップしたのと、BMW R80GSのスポークを張り替え、ヘッドランププロテクタの金網を再現すべく金属線を編んで作りなおしたりして当時自分の持てる技術を投入して仕上げました。結果は両作ともに「佳作」。それなりの評価はもらえたけど、まだまだだということを思い知らされました。その翌年にはフェラーリテスタロッサをベースにホルツのポリパテを盛って削って拡幅し、インタークーラー上のKOENIGのロゴは真鍮のエッチングを自作したりしたケーニッヒコンペティションを制作しコンテストに持ち込み見事「入賞」を勝ち取りタミヤニュースにも掲載して頂きました。

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[記念に取っておいたタミヤニュース保管状態が良くないです]

このころには実車への興味も増えていき、教習場へは通わず運転試験場へ自動二輪小型を4回で同じく自動二輪中型も4回目の挑戦で取得しましました。学生時代の愛車はホンダ メットインタクト原付2種仕様・ホンダ郵便仕様スーパーカブ90ホンダCB250RS-ZヤマハSRX-4とことごとくシングルエンジン。あまり遠乗りもせず一番遠くに行ったのも親父が単身赴任していた静岡県に行ったくらいでツーリングはいつかしてみたいですね。バイク今持ってないけど(泣。

女っ気のない学生生活最後の最後、就職口の内定も頂き卒業論文で忙しくなる前に普通四輪免許もとるべく、仮免許までは教習場に通って取得しましたが、路上教習の予約が全然取れないので試験場で路上試験を受け2回目で合格晴れて4輪も乗れるようになりました。最初に手に入れた4輪車は日産マーチターボ。バイト先の先輩に3万円で譲ってもらい卒業直前くらいまで乗ってバイト先の後輩に譲りました。次に乗ったのはA175ランサーEXターボ。高専の同期から譲ってもらった屋根がボコボコになった横転歴のある車両。ラリーアートカラーに塗装されていて元競技車両だったみたい。そういう意味で色々試すことが出来て楽しいクルマでした。こちらも卒業直前に手放しました。マーチターボとランサーEXターボを手放して直ぐに高専の先輩からスタリオンGSR-Ⅲを格安で譲って頂き、卒業後就職してからも乗ろうと思っていたのでしたが・・・・・・それは追って・・・・

【就職結婚そしてモータースポーツ活動始動】

さて、学生時代は模型に実車にと今振り返ると、女性関係以外は充実した生活だったわけですが、就職は某自動車会社になんとか滑り込みできました。本社採用で何処に勤務したいか希望を聞かれ、全く知らなかったのですが、地元川崎市に工場があることを知り全く知らない土地に引っ越す勇気もなかったので地元の工場勤務を希望し見事に希望が叶うことに。時は有難くもバブル真っ盛りだったこともあり、会社から独身寮への入所を指示され、当時の実家から歩いて20分くらいのところに引っ越しをしました。独身寮には本社採用の高校から大学院の新卒社員70名ほどが入所しており早速友達が出来ていきました。そんなこんなでお昼は会社に通い色々勉強をしつつ、帰宅後は寮に住んでる同期の友達と遊ぶような生活が始まりました。自動車会社だけあってクルマ好きがいっぱいいてクルマの整備やらドライブとか楽しんでいました。

そんな中スタリオンの終焉は突然やってきました。高専卒且つ寮の同室で同じ設計部門に配属されたN田君と夜の山下公園にスタリオンでドライブに行った帰りにぽつぽつと雨が降り出しそろそろ帰ろうかねとなった時、山下公園を右に見て走っていると、前方に発売されたばかりのR32スカイラインGT-Rが走っていました。興味本位で結構なスピードでついていったのですが、山下公園の先、大さん橋交差点の緩いS字コーナーをGT-Rは軽やかに駆け抜けていったのに対し、初心者同然のドライブするスタリオンは最初の左コーナーでびっびってアクセルを抜いてリヤを振出し慌ててカウンターをあてた(と思う)ところお釣りを食らいスピンモードへ、交差点左奥側のポールへ突っ込んで乗り上げてしまったのでした。運よく他車両や通行人を巻き込むことなく単独事故であったことが幸いでした。(今考えても無謀な運転で猛省です。)警察を呼んで事故の後処理、哀れスタリオンはレッカーで運ばれて行きました。その帰りは同期と二人で電車で寮へ帰ったのですが「まだ支払い終わってない」と生気を失った顔でブツブツつぶやき続けていたとのこと。次の日の朝起きて駐車場を見た私「スタリオンがない!」と騒ぎまくり、同期に「これを読め」とメモを渡されました。それを読んで事と次第を理解していく自分・・・・・そう、昨日の記憶がすっぽり抜け落ちていたのでした。同期がメモを残していてくれたのでマルで全てを理解している様に書いていますがそのメモの内容なのです(苦笑)。その後スクラップ屋に自分のスタリオンを見に行ったところ、運転席の真後ろ付近でくの時に曲がった姿を見て一歩間違えたらポールが自分の下半身に突き刺さっていたことを理解して震えました。皆さん安全運転しましょうね・・・・・

さて、そんな思いをしたにもかかわらず若いからなのか馬鹿なのか次のクルマを購入することに。当時ギャランVR-4がデビューしたばかりで逆スラントノーズにやられて物凄くほしかったのですが入社したてのお給料ではとてもローンが組めるような価格ではなかったこともあり「ミニギャラン」的なデザインだったミラージュサイボーグ4WDセダンを購入。人生初の新車で嬉しくてたまりませんでした。そしてこのクルマに乗り始めてから人生初の彼女が出来て、いろいろごにょごにょあって、その彼女と結婚しました。

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[人生初の新車購入 ホントはH39Aギャランが欲しかった]

翌年長男を授かりましたが、嫁さんは実家に帰省して出産したこともあって最初の顔見せからしばらくは一人暮らしでその間に出産手当が健康保険組合から振り込まれました。そんな大金を目の前にしてしたことは「アンダーガード類の購入&装着」。何という鬼畜行為。その後もラリーコンピュータやらを装着しラリー仕様へ変貌を遂げていくミラージュサイボーグ(鬼畜)。JAFのB級ライセンスもいつの間にか取得。そんな感じで仕上がったミラージュで清里高原ラリーと言うイベントへ参加し競技デビューを果たしました。しかし数回ラリーへ参戦するも全然成果は出ず、最後に参戦したラリーは千葉県ラリーシリーズ。下りのグラベルでコース内のグレーチングに左前後タイヤがはまって脱出できずにリタイヤでラリー人生の幕を閉じたのでした。そのラリー後、心配した嫁さんに「土曜日から日曜日の間全く連絡取れなくて下手したら事故してケガしてるかもしれないと考えたら気が気でない。ラリーを止めて」と訴えられてしまい、そんなタイミングでミラージュサイボーグのエンジンが壊れてしまいクルマ人生の岐路が突如発生してしまいました。ちょうどその頃ミラージュがモデルチェンジし可変バルブタイミング機構MIVECを搭載したモデルが登場します。嫁さんには「わかった『ラリーは』やめる。と言って、MIVECを搭載したミラージュRS(型式CA4A)を購入し、ジムカーナへスイッチすることにしたのでした。でも嫁さんとしては「ラリーをやめる⇒モータースポーツから足を洗う」との意味合いだったみたいでその後揉める揉める・・・今考えても自分本位だよなぁ

そしてCA4Aで練習会にいそいそと繰り出す日々が始まるのですがモータースポーツに欠かせない装備であるリミテッドスリップデフ(LSD)が未装着で自在に操れないことに日増しに不満が募り、LSDを装着することを夢想する日々。そんな中、嫁さんが「二人目が欲しい」と希望を告げてきたのでした。これはチャンス!と「ならばLSDが欲しい。」と告げるとあっさり了承してくれたのでガッチリ握手♪CA4Aの戦闘力が大幅向上したのでした。その後無事に長女が生まれました。(ちなみにモータースポーツクラブのみんなにはノンスリ子ちゃんと呼ばれていました)地域のジムカーナ競技会や練習会に参加し徐々にスキルを上げていっていったと思うのですが大会では半分より下の成績から脱却できず。そんな試行錯誤を繰り返しているとミラージュの新型(型式CJ4A)が発売されそれを横目に頑張っていましたが、やっぱり結果が出てくれない。と言うジレンマからCJ4Aに乗り換えることを決意。ベース車だけ用意して後から改造する方法だと中々クルマが仕上がらない、時間を無駄にすると考えてディーラーの営業さんと結託してジムカーナ仕様特別仕様コンプリート車として仕立て、クルマとチューニングパーツをごっちゃにして何にどれほどお費用が掛かってるのか見えない様にして嫁さんを説得して乗り換えに成功。今回もRSグレードを選択し、軽量化の為、エアコンもレス仕様に。子供が二人いるのでリヤシート撤去は出来ませんでしたが、カーペット削除や防振の為のアスファルトシートを剥がしたりして更に軽量化したりした結果、1999年にはチャレンジスピリットカップジムカーナシリーズチャンピオン獲得。その後3人目の子供も授かったりしつつ、数年後の2003年にはJMRC千葉県ジムカーナシリーズシリーズチャンピオン♪、JMRC神奈川県ジムカーナシリーズでシリーズ3位JMRC関東ミドルジムカーナシリーズシリーズ10位を獲得。生涯最高の成績を得た1年となりました。

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[ミラージュRS(CJ4A)ジムカーナ人生一番ピークだったころ]

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[シリーズ優勝の盾です。左から2003JMRC神奈川県ジムカーナシリーズ・2003JMRC千葉県ジムカーナシリーズ・1999チャレンジスピリットカップジムカーナシリーズ]

就職してからモータースポーツを頑張ってる頃は模型屋さんにふらっと寄ることはありましたが環境が整わず積むだけでした。いよいよ模型復活のきっかけが訪れました

それまで会社の社宅に住んでいましたが社宅の運用を見直す動きがあり、そのまま住み続けるのが微妙になってしまいました。持ち家を考えないといけないねぇなんて嫁さんと相談してたタイミングで、よく行くラーメン屋さんの近くで全部屋4LDKを売りにした建売マンションを発見。ふらふらと吸い込まれるようにモデルルームを見学させてもらって次の日には購入のためのローン審査をお願いしてしまいました。ローンの審査も運よく通り、借金持ちになるけど晴れて持ち家をゲットしました。借金持ちになったこともあってそれまでのモータースポーツ活動も資金的に厳しいのでシリーズを追うことは諦めることに。その際、田舎から出てきて一人暮らしをしていた義妹も子供が大きくなるまで一緒に住むことでお互いの出費を抑えましょう。と言うことで同居することに。(結局子供が大きくなった現在でも同居中ですが)

またFF車でドライビングテクニックを磨くのに飽きてきたこともあって、友人+兄+自分の3人でMR-2(SW20Ⅱ型)を共同所有してジムカーナの練習しようという事になりました。ジムカーナ練習会で初めて乗ったMR-2はそれまで学んできたドライビングテクニックで御せる代物ではなく新たな刺激に乗るのが楽しくてたまらない最高の1台でした。それまで手塩にかけて仕上げたCJ4Aミラージュの存在がかすむくらいに。数年そんな感じで遊んでいたのですが、友人も兄も共同所有を続ける意思がなくなってしまったため、私が引き取ることに。この時、ミラージュとMR-2の2台体制を維持するような資金的余裕がなかったので、ミラージュは知り合いに譲りMR-2だけとなりました。家族5人なのに(苦笑)。

そして慎ましいモータースポーツ生活(?)を続けていたところ、義母が田舎から遊びに来ました。パラダイムシフトの始まりです!

【思いもよらぬ義母受け入れからの模型誌ライター業始動】

遊びに来ていた義母は1週間たっても2週間たっても実家に帰りません・・・・

3週間目に入って遂に「いつ帰るんですか?」と聞いてみたところ、義母「ここに引っ越してきたのに何言ってるの。」と宣うじゃありませんか!家主の自分の知らないところで勝手に住むことになっているらしい(滝汗)。家族を巻き込んで喧々諤々もめるも結局仕事を辞めてこちらへ来てしまっていることもあり、無理やり追い出せるほど鬼にもなれず同居することに。そんなことが有ったので義母とは険悪な状況になり半年余りで体重も15㎏落ちました。リビングにいても気分が悪く自室にこもる様になりますが、テレビ見ても楽しくないし只々夜になって寝るまでぼーっとするような日々が続きました。なんだかあほらしいなぁなんて思ってましたが、何であんな勝手な人のせいで嫌な思いをしなきゃいけないんだろう。理不尽だと思い至り、やりたいことをやることに。

モータースポーツは本格的にやるにはお金が掛かりすぎるので模型製作を再開することにしました。第二次模型生活の開始です。再開直後は大したツールも持っておらず、ニッパーにデザインナイフ、缶スプレー塗装から細々と始めました。そんなボッチで活動していた最中、会社内で完成したカーモデルを飾っている机がありまして、繁々とその素敵なカーモデルを見ていたら声を掛けられました。声の主は、座間隆宏さん(現在モデルアートでライターもされています)プラモデル制作に興味あることを伝えたら「今度ホビーフォーラムってイベントが有るから観にきてみない?」

とお誘いを受けて当時赤レンガ倉庫で行われていた同イベントに行ってみました。物凄い賑わいでギュウギュウの中、皆さん自慢のプラモデル完成品の展示、フリマ販売やイベント限定品販売等々知らない世界がそこには広がっていました。HP「KEN‘s Rally Cars」で超絶ラリーカーを披露されているKENさんの作品を間近で拝見できたり、イラストレーターの溝呂木さんとお話をしたり、何より座間さんの所属している湘南モデル愛好会(SEM)の圧倒的な物量且つ素晴らしい作品を目の当たりにして、こんな素晴らしい世界に踏み込みたいと感動しました。イベントのあと座間さんに「SEMのミーティングに来てみない?」とお誘いを頂き、ミーティングにお邪魔したところ主催の北澤志朗さんをはじめクラブの皆さんに温かく迎い入れて頂き末席に加えさせて頂きました。SEMのミーティングでは皆さんの素晴らしい作品を鑑賞させていただくことで目が肥えていき、且つ、自分の作品のレベルとの差を思い知らされて愕然としつつ客観的な差異を理解することで、作品作りへの要求レベルがあがり成長していくことができました。静岡ホビーショー合同展示展やホビーフォーラムへ参加し模型友達も増えていきプラモデル制作を通じた楽しい日々を手に入れ、義母問題も気にならなくなりました♪

そこそこの仕上がりが期待できるような腕前になった時期に遂に模型誌に作品を提供する機会が訪れました。まずはモデルカーズ誌よりSEMへ4ドアツーリングカーの特集を企画しているので作品を用意してほしいとのオファーが。クラブからは数台の作品を提供し、その中に自分の制作した190EVO2「ベルリン2000」も含まれていました。この時は原稿を自分で書くことなく作品を提供しただけでしたが綺麗に撮影された自分の作品が誌面を飾り感慨無量でした。(モデルカーズ誌No,151

続いて、モデルアート誌当時の編集長の犬木さんがSEMのミーティングに訪問されました。事前にお話は聞いていたのでいくつかの自信作を見て頂きその日はそのままお帰りになられましたが、後日モデルアートの特集に掲載する為に作品を貸していただけないかとのオファーを頂きました。作品(フジミ製Dino246GTから車体を切り刻んで短縮した206GTと246GTS)を貸し出しました。しかし今回は原稿も自分で書くことになり、四苦八苦して原稿を書き上げライターデビューを果たしたのでした。(月刊モデルアート2009年12月号

今現在も定期的にカーモデルを中心に作例をオーダーいただきお世話になっております。話は前後しますが、趣味の模型製作も充実していき、SEMのクラブ員として毎年ゴールデンウィーク開けに開催される静岡ホビーショー合同展示展や秋口に開催されるホビーフォーラムに参加し新作を展示させて頂いてます。ある年「Ka-ModelのGT40用ディティールアップパーツ」を入手して、「フジミのキットに組み込んでパカパ化(いわゆるフル開閉)できるの作ったら楽しそう♪」と思い立ち、ゴールデンウィーク直前に突然制作を開始、フジミのボディ2個を犠牲に切り刻み、ディティールアップパーツを組み込んで金属線を曲げてエキパイ再現してゴールデンウィーク終了直前に完成させました。そしてゴールデンウィーク開けに開催される静岡ホビーショー合同展示展にてSEMのブースへ展示しそれなりに話題になったのが忘れられず、自分の中で「毎年1作はパカパ化の新作を作る!」を心に誓い、毎年何かしらのパカパ化モデルを作り続けています。(今年はまだ出来ていない・・・やばい

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[人生初のフルパカパ化モデルのGT40開閉可動化だけでなくシートのハトメを切り刻んだアルミパイプを埋め込んで再現したりして色々なアイデアを盛り込んだ意欲作です]

そんな感じでパカパ化モデルを作り続けていたところ、同じくパカパ化モデルを鋭意作り続けている「Page!」さんと一緒に2012年の静岡ホビーショーで出版社の新紀元社の担当者さんと会うことになりました。オファーの内容は「パカパ化指南のムックを作ってみませんか?」とのご提案。もちろん快諾させていただき、モデルアート誌作例と並行して作り始めました。そしてそんな最中、SEMクラブ員且つモデルグラフィックスの作例を手掛ける小田さんより「モデルグラフィックスがライター募集してるから面接行かない?」とクラブ員に声が掛かり、数名で面接を受けました。面接会場はモデルグラフィックスの入っている事務所で行われ、自分達の作品を見てもらいながら穏やかな雰囲気の中、面談が行われ、最終的にラリーカーの特集をするのでよろしくお願いしますとのことで終了しました。(特集はその後少々時間がかかって2014年5月号で掲載されました。)ラリーカー特集の話が滞る中、モデルグラフィックス編集部より別途ご連絡がありバイクモデルも作られるようだから作例をやってみないかとのオファーがタミヤより84NSR500RGV500Γが発売されたこともあって請負ました。が、同時に三誌の作例を進めなければいけない状況へ自ら飛び込んでいったことをこの時の私は軽く考えていたことを後悔するのでした・・・・

新紀元社のパカパ化本作例はかなり余裕のある日程でスケジュールを組んでいてくれたのですが、突発ではいるモデルアート誌の作例を優先して進捗が芳しくない上に難易度が激しく高いのでなかなか進まず、編集長のK納さんに釘を刺されていたにも関わらずモデルグラフィックス誌の作例も同時並行で進めなければならない修羅場が勃発。12月も後半に新紀元社K納さんから「Page!さんはとっくに納品してくれて原稿も終わってるのに何やってるんですか!作例の締め切りは大晦日まで!原稿は正月休み中に書き上げること!」と鬼の様な難題を吹っかけてきます。(←悪いのは自分!)寝る間も惜しんで作例を進め大晦日の夜中にパカパ化本の作例を完成させましたその後、モデルグラフィックスの作例を作りつつ原稿は少々遅れてしまうもののも完了修羅場をくぐり抜け、二度と同じ過ちを犯すまいと心に誓うのでした。(パカパ化本第二弾でも同じことやっちゃうんですけどね

モデルグラフィックスの作例もパカパ化本の作例も2月頃にスタジオで撮影、モデルグラフィックスはなんと巻頭特集に♪(モデルグラフィックス2013年5月号)

パカパ化本「新紀元社自動車模型フル開閉化編」も5月頃発刊。楽しくも最高に苦しい地獄を脱したのでありました。

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[新紀元社自動車模型フル開閉化編作例のランチアストラトスHF各開閉箇所を閉じたときにもピッタリ隙間なく閉じるのが自慢です。]

【そして今現在】

モータースポーツ関連はマンション購入後にMR-2に乗り換えたことは先にもかきました。そして今もMR-2に乗っているのですがそれは当初のMR-2(SW20Ⅱ型)ではなくMR-2(SW20Ⅲ型)に換わっています。最初に乗っていたⅡ型は悪評名高いⅠ型から、メーカーの威信をかけて足回りを全面改良したモデルで外装もチンスポイラーの追加とタイヤホイールサイズ拡大程度でエンジンパワーは225ps練習に行ってもパワーのなさを感じていたこともありウェストゲートが開かない様に細工したりして(良い子はマネしちゃだめだぞ)何とか頑張っていました。そんな状況の中、Ⅲ型に乗っていた友人が「他のクルマに乗り換えるから欲しい?」と聞いてくれるじゃありませんか♪二つ返事でOKをしてそれまで乗っていたⅡ型は別の友人に玉突きで譲ることになりました。ちなみにⅡ型からⅢ型の変更内容は何といってもエンジンパワーが245psに!外観もリヤスポイラーの形状変更やリヤ周りのデザインが変わりスポーティさが向上しております。(私の主観)

しかしMR-2からMR-2に乗り換えることは家族の誰にも相談せず・・・・・ある日しれっと新たなMR-2に乗って帰宅。食材の買い出し等にMR-2を使っているのですが、新たなMR-2を車庫から出していると怪訝な表情でMR-2を見つめる嫁さん・・・・・・辛抱溜まらず「黒から白に塗り替えたんだよ(大嘘)」とついつい声を漏らしたけれどそんな訳がないことは看破されているわけで(滝汗

ただ、クルマの維持費は小遣いの中でやりくりしていたこともあって叱られることはなかったのですが、「なんでまた二人乗りなのかなぁ・・・・」と今も言われます。(滝汗)そこまでして手に入れたMR-2Ⅲ型は既に10年以上乗ってますがこれを超える楽しいクルマに出会うことが出来ず、ここ最近のスポーツカーは安全規制や通常の使い勝手向上のために、純粋に走りを楽しむには余計な装備や電動パーキング等ジムカーナを行うには致命的な構造になってたりして、このクルマから乗り換えようと思わせる動機がないまま10年後60歳を過ぎても乗ってそうな気がします。ここ数年でタイミングベルト交換やトランスミッションフルオーバーホール、ショックアブソーバーフルオーバーホール等々リフレッシュというかレストアチックなメンテナンスが増えてきて維持するのも大変な上にジムカーナでレッドゾーン飛び込むまで回す様な鬼の様な使い方もしているので、いつぶっ壊れてもおかしくないですが維持費が出せる限りきちんとメンテナンスをして楽しんでいきたいと思っています。

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[練習会で一コマ。いまもこのMR-2で楽しんでいます]

また、お陰様で模型関連のライター業はモデルアート誌もモデルグラフィック誌も新紀元社さんも良好な関係を続けてさせて頂いていて、時たま、カーモデル・バイクモデル以外の作例も挑戦させて頂いたりして知見を広めることが出来ていってます。

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[モデルアート誌作例F-14Aバンディ1 航空機でもピカピカに磨いてしまいます。]

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[モデルグラフィックス誌作例ランチアデルタS4ツールドコルス仕様 ヘンリ・トイボネン セルジオ・クレストの最後のマシーン ドア開閉改造を施しフルパ化に]

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[モデルアート誌作例ランチアデルタHFインテグラーレ16Vとモデルグラフィックス誌作例ランチアデルタHFインテグラーレエヴォルツィオーネ誌面を超えて好きなクルマの作例を担当させて頂けて幸せです♪]

新紀元社のムックもパカパ化本が好評で重版が数回掛かり、電飾に挑戦した第二弾「自動車模型 フル開閉&電飾 超絶テクニック」や、内容を詳しく平易にした(つもり)第三弾「自動車模型 フル開閉 実践篇」とシリーズ化、メーカー縛りで「究極のランボルギーニ」のムックを発刊して頂いてます。

また北澤さんKen―1さんと一緒に他のメーカーのムック作らせて欲しいな♪

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[第二弾「自動車模型 フル開閉&電飾 超絶テクニック」掲載のポルシェ917K]

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[新紀元社「究極のランボルギーニ」撮影時のスナップ。北澤さんKen-1さんとの楽しいお仕事でした。カウンタックウルフ1はその際の作例]

出版社さんのお仕事だけじゃなく個人の方からのオーダーも受け付けていますので気にいっていただけた方がいらっしゃいましたらお気軽にご連絡くださいませ。

趣味の模型はどうしたって滞りがちになってしまってますが、キャラクター物・ヒコーキ・AFV・フィギュア等々興味を持った物は沢山あってキットのストックも沢山あるので、なんとか時間を作って取り組んでいきたいと思ってます。そこから見つかる新たな発見も楽しみです。もちろんカーモデル・バイクモデルの未組み立てキットも大量にストックしているので時間を割いて形にしていきたいな。

沢山の方々に支えられて今の自分が出来ていると思います。感謝の気持ちを忘れずに自分の出来ることお役に立てることに努めて、その上でこれからも楽しく、何より笑顔を絶やさずに生きていきたいと思います♪

最後に模型のコラムらしくこの言葉を

「仮組み100回」勝利への王道です(笑

ご高覧ありがとうございました。

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髙橋浩二
某働く自動車製造販売株式会社で働きつつ、「モデルアート」「モデルグラフィクス」両誌で作例を制作、「パカパ化」に特化した著書を新紀元社より数冊発刊、模型メーカーのサンプル制作、個人依頼の制作等を行う兼業模型ライター・フィニッシャー。 Web site:かっぱコーヂのくるまづくし(現在更新休止中) http://www.cims.jp/sun/kappakoji/ カーモデル他各種模型製作のご相談、御用命はkappakoji@yahoo.co.jpまで。
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