カートイワークス グランプリ

【第13戦 カートイワークス グランプリ】フル開閉・フル可動化の伝道者・カーモデラー髙橋浩二氏

日本一のダイハードモデラーKen-1さんよりバトンを渡された「かっぱコーヂ」こと高橋浩二と申します。

現在、「モデルグラフィックス誌」「モデルアート誌」を中心にカーモデル・バイクモデルの作例を掲載して頂き、時々カーモデルの各部を切り刻んで開閉可動化する改造、いわゆる「パカパ化」するためのノウハウを詰め込んだムックを新紀元社様より発刊して頂いたりと言った模型振興活動を中心に個人や企業様依頼の模型製作も行い、それを原資に大好きなMR-2SW20)を維持、ジムカーナで楽しんでいます。

また、【第10戦 カートイワークス グランプリ北澤志朗さんの主催するクラブ「湘南モデルカー愛好会(S・E・M)」にも在籍させて頂いており、コロナ禍で自粛中ではありますが、毎月ミーティングで楽しく模型談義させて頂いていました。早くコロナ禍が収束して以前の様な交流が出来るようになることを祈念しています。

【幼少のころ~就職前】

公務員の父、専業主婦の母の元、1970年に次男として誕生しました。2歳ごろだったかな、川崎市の公務員住宅に引っ越してきて就職までその地で過ごすことになります。

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[5人家族の次男坊(右手前)]

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[弟の哺乳瓶を奪いご満悦の図]

物心つき始めたことは主要道路以外まだ砂利道が多く年齢と共に都市化が進み、住み易くなる一方で自然がなくなっていくのは一抹の寂しさも感じました。

公務員住宅は5階建て40戸の集合住宅が10棟建っていて、同じような年齢の子供達がたくさん。そのおかげで沢山の友達に恵まれ色んな遊びをして過ごしました。メンコやベーゴマを住宅の階段の踊り場で遊んだしていました。そしてご多忙に漏れず、スーパーカーブームの洗礼を受け、当時爆発的に流行した「スーパーカー消しゴム」をBOXYのボールペンでパッチンしながら階段ダウンヒルレースを楽しんだのでした。このころ、ちょっと裕福な友人はタミヤの1/12だか1/20のポルシェ910を買ってもらえて、これまた階段の踊り場で作るのを見させてもらってプラモデルの存在を知ったのでありました。(と言うかこの年になってもタミヤのビックスケールシリーズなかなか買う勇気が出ないので素直にうらやましい(苦笑))

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[本文とほぼ関係ない外でもガンガン遊ぶ子供でした。田舎の四万十川支流にて]


さて、プラモデルの存在と言うか、自分の手を動かして形を作り上げるというものに目覚め、学校帰りに立ち寄る文房具屋さんの一角にあったプラモデルコーナーで4個セットのスーパーカープラモデルアオシマの合体シリーズをしげしげと眺め、子供なりによく吟味したうえで月に一度のお小遣いを貰ったら一目散で狙っていたプラモデルを買って帰ってきたらすぐ作る。そしてまた一か月間悩み続けるルーチンを繰り返し繰り返しどっぷり嵌っていくのでした。

小学生の上級生にもなったころ、お小遣いも順調に増えていきと言っても600円/月程度なので、よく吟味しつつ手に入れるプラモデルを選び作る楽しみを味わっていました。ガンプラも本放映時から作り始め、真っ白のガンダムでは味気ないし、取扱説明書にランナーについた状態の塗装見本が載っていて、とても魅力的だったこともあり、塗装見本を見つつ筆塗りで塗装することを覚えました。とはいえ、塗り斑やはみだし、刷毛目は見えるしとても見本の様に綺麗に塗れるわけでもなく、今の自分のレベルで見たら、泥人形の様な仕上がりですが当時の自分としては今まで知らなかったテクニックを使う事で表現の幅が広がることに喜びを得ていたのでした。(後から振り返るので説明がつくけど、当時は只々楽しかったんでしょうね。)そうやって色々技を駆使してプラモデルを作っては近くのプラモ屋さんに持って行って飾ったりしてもらっていました。そんなこんなでガンプラを少ないお小遣いで楽しんでいたら、空前のガンプラブームが到来!それまではガンダムやザク等、人気のあるモビルスーツのキットをお店でじっくりと悩んで選ぶことが出来たのに、お店が開店する前に並んで、それでも目当てにしていたキットが買えない状況になってしまいました。そうすると作りたいものが作れないジレンマにガンプラへの興味が徐々に無くなっていき、いつでも買える1/700スケールの喫水線より上側を再現している艦船模型のウォーターラインシリーズや1/72スケールのゼロ戦等の第二次世界大戦関連のプラモデルに興味がシフトして、大人への階段を一歩進んだのでありました。

そんなこんなで小学校を卒業し特に勉強熱心でもなかったので最寄りの中学校へ入学します。クラブは仲の良かった友達が陸上競技部に入ったこともあって自分も入るもどの種目が良いのか中々決まらず、走り幅跳びや100m等チャレンジするも全然記録が伸びず最終的に1500mへ、ここでも記録は伸びなかったのですが、練習はみんな一緒にジョギングしたりインターバルトレーニングをするのでメンバーの一体感が心地よかったです。秋には学校対抗の駅伝大会が多摩川の河川敷で行われ、他のクラブの足の速いメンツも加え大会に向けて河川敷で練習するのも苦しくも楽しかったです。ここでも選手に選ばれることは3年間一度もなく選手のサポートでしたが大会終了後、学校に戻りみんなで食べたカツ丼がおいしかった記憶が残ってます。その頃は艦船模型や飛行機模型を作りつつ、親父の乗っていたCB250RSーZの整備につきあわせられているうちにバイクに興味が出てきてタミヤの1/12オートバイシリーズも作る様になってきました。塗装は相変わらず筆塗りがメインでしたが、外装部品が均一な色味に中々ならず、刷毛目が目立つことが気になるお年頃になっていたこともあって、徐々に缶スプレーを購入する様に。でも下地もろくに整えず、いきなり厚吹きするもんだから角部には色が乗らず、下側に塗料が溜まってしまう始末・・・・と、今の目線で思い出すとそう思うけれど、当時はやっぱり色々できる様になるのが楽しくて仕方なかった。大好きなオートバイが掌の上で形になっていくのがうれしくて、中学校一年の時のお小遣いが1000円/月、二年で2000円/月、三年で3000円(今考えると凄いベースアップ率(苦笑))と自由になるお金もうなぎ上りで充実の模型ライフが開かれていくバブルな中学時代でした。


そんな模型ライフを続けながら進学をしていくのですが、時は受験戦争と言われていた時代をまだ引きずっている最中で連日物騒なニュースが踊っていて高校に行ってもその先の大学受験を考えたら阿保らしいと考えていました。

自分「だったらさっさと就職してお金を稼いで自由に使えるお金をつかんだ方が良いんじゃね?

と阿保な中学生なりの考えを進路相談時に先生に伝えたら、先生が焦る焦る!

先生「だったら大学受験も無くて、就職率100%の素敵な学校があるからそこに行ってみないか?中学校卒業よりいい給料ももらえるぞ!

と、なかなか魅力的な提案を先生が提示してくれました。

恐ろしい大学受験もなければいい給料も貰えるなんてなんて素晴らしいんだと先生の提案を受諾して受験することにしたのは、工業高等専門学校(高専)。どんな学校かというと各県にほぼ1校しかなく、高校3年+専門課程2年=計5年を使い、通常の工業高校よりも深く突っ込んだ内容を5年間かけて学習していくマニアックな学校であります。非常に魅力的な提案をされた自分は第一志望を高専に、滑り止めに最寄りの公立高校を受験することに。運よく第一志望の高専に受かったので、晴れて高専へ通うことになったのでした。


そして希望に満ち溢れて入学直前の登校日に登校するとそれまで感じたこともない様なピリピリした空気感・・・・

教室に入ると先生の他、数名の先輩がいる。そして出欠確認が始まり名前を呼ばれ「はい」と呼ばれた新入生が答えると、先輩「声が小さい!やり直し!」とか始まる・・・

なんとバリバリ精神的体育会系な学校だったのだ!と気づいても、もう遅い(苦笑)。入学後も先輩の監視付きで一学期目は勉強ではなく生活指導や団体訓練という名のしごきに耐え、先輩へは絶対服従、規範を外れた行動には厳罰が下される恐怖の日々が始まったのでした。クラブ活動も強制的に参加することが義務付けられていて、中学校からの流れで高専でも陸上部に入ったのですが、年功序列の厳しい学校だったので先輩の言う事は絶対という雰囲気であまり楽しいという雰囲気ではなかったかな。それでも気のいい先輩や同期もいるわけで、なにより5年生の部長が良い人で1年生の前半は頑張って部活に勤しんでいました。高専のカリキュラムは高校+大学で習得することを5年間で詰め込むことを目標としているので授業時間は長く放課後、部活に参加すると学校から帰る時間はかなり遅くて慣れるのに大変だったこともあり、趣味の模型に割く時間は激減していました。その生活が一変したのは5年生の先輩が引退して4年生の先輩が新しい部長になった頃。新しい部長は良くも悪くもまじめで何でもちゃんとやろうと頑張る人。部活ももっと良くしようと考えたのでしょう、色々メニューやらなんやらが今まで以上に厳しくなってしまいました・・・・・

苦しくも楽しい何かが有れば続けられるのですが只々辛かったので、徐々に部活をさぼる様になって、他にも同調する同期が何人かいて、気持ちは「赤信号みんなで渡れば怖くない」理論が発揮されていたのかも。そしてそんな状況が一か月程度続いた頃に部長に呼び出され、

部長「やる気がないなら辞めろ(心の声は、ちゃんとクラブ活動に顔を出したら不問にするぞ)」

と言われたので

自分「あ、では辞めます。」

部長「ぽかーん」

と言う儀式を経た後、晴れてクラブ活動から解放されたのでありました。そして放課後の時間が空いた結果どうするかと言えば、模型製作の復活であります♪親父のバイク整備の手伝いも続いていたこともあって、自然と作る模型はバイクが中心に、手ごろに手に入るタミヤの1/12シリーズを中心に、このころもやっぱり筆塗り中心で作っていました。そんな中、高専の休み時間に友達と回し読みしていた週刊マガジンに掲載されていたバイクマンガの「バリバリ伝説」が面白くて虜になりました。このころ親父のバイクも何故かCB750Fに(巨摩郡のFBじゃなくてFZだったのはちょっと残念だった。)、そんなこともあってタミヤのCB750Fは沢山作り、高嶺の花である1/6ビックバイクシリーズのCB750Fも何とかゲットして作り始めました。ふんだんに施されたメッキパーツや軟質素材のシートやグリップ、金属挽物にメッキを施したフロントフォークインナーチューブがブリスターパックの中に収められていて超豪華な内容に興奮したものです。そしてそんな高級なキットを目の前に躊躇する自分。果たして今までの作り方で作って自分は満足できるのだろうかと・・・

その頃の模型指南はタミヤニュースが中心でそこから得た知識を自分の模型に試していくようなスタイル。1/6CB750Fには合わせ目消し(接着後、耐水性サンドペーパーで合わせ目を削り継ぎ目を見えなくする処理)と缶スプレー塗装による平滑且つラメが泳いでいない綺麗なメタリックレッドに仕上がった外装に満足したのでした。そして完成後もモリワキの集合管をスクラッチしたり、クリップオンハンドル・ナポレオンミラーをスクラッチして巨摩郡仕様のCB750Fに改修したりして徐々にただ作るのではなく思い描いているものへ改造する楽しみも覚えていくようになりました。そして調子に乗った自分は近くの模型屋さん(ピットロード東名