皆様こんにちは、この度こちらのコラムに参加させていただく柳井と申します。 日ごろは模型誌において航空機モデルの作例等でお目にかかっておりますが、完全に趣味のカテゴリーであるカ ーモデルをメインとしたこの場に参加させていただき、嬉しいやら恥ずかしいやら・・・。 と、いう事で最後までお付き合いいただければ何よりです。
意外に早いスケールモデルデビュー?
産まれは愛知県名古屋市で、現在は大阪に住んで十数年となりました。幼少期からモノ作りが好きで、小学生の頃の通知表は国語や算数より工作の点数が秀でていたような子供でした。私が子供の頃はいたるところに何かしらのプラモデルが売られており、小学校前の駄菓子屋は勿論、商店街の用品店等でもブリスターパックのプラモデルがあったのを覚えています。 それだけ誘惑が溢れていた良い時代でもありました(笑)
はじめて本格的なスケールモデルを作ったのは小学校 3 年生の頃だったと思います。それはタミヤの 1/20 リジェ JS11。
色を塗るなんてこともせず、ひたすら部品をくっつけてカタチにしていったのを覚えています。そしてさすがにボディーを箱絵のようにしたくなり、「色を塗ってみよう!」と決意。用意したのは学校で使っていた水彩絵の具。当然塗れるはずがありません(笑)
それがハードルとなったのかトラウマになったのかはわかりませんが、それ以降は本格的なプラモデルを作らなくなり、ロボダッチなどのキャラクター物中心になりました。
車への興味
住んでいた所が名古屋駅の近くだったこともあって電車好きの少年でしたが、小学校 4 年生へ進級するのを期に転校したのがきっかけで飛行機にハマりました。
転校した先は名古屋空港(現・県営小牧空港)の近くで、授業中でも飛行機のエンジン音が聞こえるような環境。予定がない時は自転車で空港へ行き、ひたすら飛行機を眺める生活になりましたが、飛行機のプラモデルは作らずに何故かもっぱらガンプラばかり作っていました(笑)
やがて成長と共にローラースケート、ラジコン等へ趣味は移り変わり、いよいよ免許取得となる年齢になるとバイクに夢中になりました。原付免許を取り、スズキのガンマを買ってあちこちいじり倒して転びまくって楽しんでましたね。
車の免許は実は 20 歳になってから取得しました。当初は車への興味はそれほどなかったのですが、とあるきっかけで 1970 年式カマロに乗せてもらったことがきっかけとなり、アメ車というものへの興味が沸騰しました。
当時はエックラーというパーツメーカーのカタログや各雑誌を読みあさって夢を描いていましたが、程なくして 86 年式のコルベット C4 を購入となりました。
V8、5.6Lのエンジンから生まれる図太いトルク、ロングノーズ・ショートデッキのボディー、国産車には絶対に設定のない太いタイヤ、オープンカーの気分を味わえる脱着式ルーフなどなど、自分にとってドリームカーでありました。
しかしそれは金食い虫とのお付き合いでもあり、ガソリン代は 1 回満タンで 1 万円コース、自動車税は 88,000 円、マイナートラブルの修理代、高額な任意保険料などで他の趣味や遊びをする余裕などはまずなかったですね (笑)
模型との再会
そんなコルベットを手放してから、模型雑誌だけはずっと読んでいたためかなんとなくプラモデルに戻っていま した。バイクやカーモデル、を中心に製作を行い、年に2~3機程度ハセガワの1/200旅客機キットを製作していたと思います。それも数か月に1 個程度のとてもヌルい製作頻度で、本当に気が向いた時だけの製作でした。
そんなとき「モデルカーレーサーズ」という模型雑誌に出会いました。そこには手のひらに乗る1/43 というスケールながら、信じられない程の作り込みを施された作品が紹介されていて「衝撃」としか表現のしようがない感情を持ちました。
それを期に、しばらくはタメオやBBR、プロバンスムラージュなどの 1/43キットを製作するようになりました。ホワイトメタルやレジン製キットと言うプラスチックとは異なる素材だけに苦労しましたが、それ故に完成した時の達成感はとても高かったですね。
当時最後に作ったのがタメオの'76 マーチ・フォード 761だったのを覚えています。また、コルベットにお金を注ぐ必要がなくなり、お小遣いにいささか余裕ができたこの頃になってはじめてエアブラシを使うようになったと思います。
しばらく1/43 から離れていましたが、15年越しの2020年7 月にキットを製作しました。 とても楽しく、時間を忘れて没頭できたことと 1 台は作りたかったフェラーリ 126C2でしたので感無量でした。
飛行機モデルへ
自宅が空港に近い事もあって自衛隊の基地祭は毎年行っていたのですが、自分の模型遍歴を見渡すと「戦闘機」というものを殆ど作っていないことに気付きました。
そう気付くと行動は早かったですね。ハセガワのファントムやF-104などをモリモリ作ってました(笑) 特にファントムは大好きな機体ですし、たくさん作りましたね。
ある程度作れるようになると、クラブに入って他の方の作品を見て勉強してみたくなりました。当時は静岡ホビーショーや展示会なんていう物の存在すら知らず、偶然知った岐阜の模型クラブに参加させていただきました。
はじめて模型という趣味で多くの方と意思疎通ができる機会を得ることができたので、とても嬉しかったですし、有意義な時間の過ごし方ができたと思います。
ちなみに、このころはホンダのオルティアに乗っていましたが信号無視の大型トラックに右から突っ込まれて車幅が 2/3 くらいになって廃車となりました(泣)
その後にホンダの初代ライフ、オペルのアストラワゴンと乗りましたがどれも自分の車に対するフィーリングが 物足りず、結局再びコルベットの'93 アニバーサリーへと戻りました。 やっぱり僕の感覚にはアメ車が一番しっくりきます(笑)
インターネット
世の中にパソコンとインターネットというものが普及すると、それまでの世界観は少しづつ変化していきました が、それは僕も同様でした。結婚を機にコルベットを手放し、大阪へ来てからのこと。
元々SNS の走入とも言えるmixiを始めたことをきっかけに自分で模型のグループを作っていました。見ず知らずの人達と共通の趣味で話あえる場は刺激的で、良い発見の場でもありました。
そのグループのメンバーさんの一人が月刊モデルアート誌の創設者様をご存知であり、その方曰く「あなたはこんな小さなグループで作品を発表するだけではもったいない」ということでわざわざ紹介状をモデルアート社に届けてくださったのです。
偶然にもモデルアート社の方も僕のホームページを見てくださっていたこともあって話はトントン拍子で進み、ライターという大役を得ることができました。
この頃は飛行機模型にどっぷり浸かっていたこともあって、それも良いタイミングだったと思います。逆にこのmixiをしていなければ、今の僕の人生は違ったものになっていたでしょうし、こうしてコラムを書くということもなかったのではないかと思っています。インターネットってスゴイね(笑)
プロとしてのスタートと気持ちの変化
モデルアート誌で作例を始めるようになってから展示会にも参加するようになりました。地元大阪のイベントはもちろん、静岡ホビーショーの合同展示でもお招きいただける機会を得て参加をはじめました。
誌面で見たものを実際に直接見てみたい、と思うのはモデラーの心理では?そう考えるとほんの僅かでも僕の作品を見たいがためにイベントに来場してもらって、イベントそのものが賑やかに盛り上がるのでは?
そうした方々と直接お会いできて、なおかつ来てくれた人もイベント主催者も喜んでもらえるなら参加すべきだという思いから参加を決意しました。模型への力の入れ方が本格的になるにつれ、模型そのものへの目の向け方も変わっていったように思います。
大阪へ来てからは正直な所良い就職先に恵まれず苦労が多かったのですが、モデルアート誌の掲載が順調だったことで「模型で食っていく」ということへチャレンジすることにしました。誌面の作例というものは決して毎月あるわけではありません、そして作例を担当したからと言ってもサラリーマンのような対価は得られませんし、足りないものは何かしらの方法で用意しなくてはなりません。
でも、苦労するなら好きなことをして苦労したほうがマシだと思ったんですよね。上司や会社のルール、時間に縛られないメリットがあります。その代わりやるもやらないも全て自己責任ですし、常に何か新しい取り組みや提案をしていく必要があると思っています。模型の世界も技術は進歩していますし、浮き沈みも激しい世界です。
そして何より「人は飽きるという感覚を持っている生き物」だからです。変わらない作風、変わらない技法を延々と続けていては飽きられてしまいますし、時代に取り残されてしまいますからね。でもそうした努力がカタチになって、それを見た人が刺激を受けたりしたとしたら“やりがい”のあることだと思っています。