カートイワークス グランプリ

プロモデラー北澤志朗様/ミニカーとの出会いと職人になるまで、そしてこれからのこと【第10戦 カートイワークス グランプリ】

みなさん、こんにちは。プロモデラー/模型ライターの北澤志朗です。模型専門誌に掲載される自動車模型の作例を制作したり、自動車や自動車模型に関する記事を執筆したり、個人のコレクターや企業などの注文で自動車模型の完成品を制作・販売しています。この仕事のキャリアはおよそ26年ほどになります。また自動車模型作りは私にとって趣味でもあり、模型愛好家のサークルS.E.M.湘南モデルカー愛好会の代表もしております。

今回、長年の模型仲間である荻野ゆかさんからバトンを渡され、これまでの自分のプラモデルやミニチュアカーとの関わりや、今の仕事に就くまでの経緯などを語らせていただくことになりました。

少し長くなると思いますが、みなさん、どうぞお付き合いくださいませ。

(1)幼少期、ミニチュアカーとの出会い

私は1961年に神奈川県藤沢市で生まれました。当時、自宅にも近所にも自家用車はほとんどありませんでしたが、なぜか赤ん坊の頃から自動車が好きで、ぐずっても近所の道路で走る自動車を見せれば、すぐご機嫌になったとか。母方の祖父は工業技術者で、戦前には自前のオートバイ開発も目論んだそうで…物心つく前に亡くなった祖父の記憶はありませんが、走る機械好きのDNAは祖父から受け継がれたのかも知れません。

兄弟がおらず、いつも家の中で遊んでいた私の好きなおもちゃはクルマばかりでした。父が日本橋の三越デパートで買ってきた真っ赤なペダルカーと、誕生祝いに大伯母から貰った青いブリキの自動車がお気に入り。ペダルカーの方は車種不明ですが、ブリキは古い写真を見ると、1954~56年頃のシボレーフォードのようです。これはいずれプラモデルで再現したいと思っています。

 

 足元にあるのが大伯母が買ってくれたティントイ。赤ん坊の私と比べると、かなり大きいですよね。

子供の頃は体が弱く、しょっちゅう医者にかかっていました。病院通いを嫌がる私のご機嫌を取ろうと、母は病院帰りに必ずデパートでミニチュアカーをひとつ買ってくれました。藤沢駅北口前のさいか屋デパートには、とても品揃えの良いミニチュアカー売り場があり、ガラスケースの中に国産・輸入を問わず数多くのミニチュアカーが並んでいました。

普段買ってもらえるのはマッチボックスシュコーコーギージュニアなどの安価な3インチがほとんどでしたが、誕生日やクリスマスなどの特別な時には、ダイヤペットコーギーディンキーなどの高価なミニチュアカーを買ってもらえることもありました。それにつられて病院通いを続けるうちにだんだん丈夫になり、小学校に上がる頃には医者にかかることも少なくなりました。

 

 晴海の自動車ショーにて。後ろは2代目パブリカ。この車が特に好きだったわけじゃないんですが…

やがて1970年、9歳の時にトミカの販売が始まると、私はたちまちその虜になり、毎月の発売日にお小遣いを握りしめておもちゃ屋に通うようになりました。マッチボックスシュコーなどと違い、身近な国産車の3インチ・ミニチュアカーがどんどん発売されるというのは、当時としては非常に画期的なことだったのです。

中学生になるとお小遣いの額も増えて、毎月1、2台は1/43のミニチュアカーを買えるようになりました。その頃には主にソリドノレブオートピレンリオブルームなどの輸入品を集めていました。

スーパーカー・ブームが始まり、世の男の子たちはこぞってフェラーリランボルギーニポルシェなどに夢中になっていましたが、私は愛読していた「カーグラフィック」誌の影響で、MGトライアンフアルファロメオなどの小型スポーツカーやブガッティなど戦前のクラシックカーの方が好みでした。

 

 ブルームのブガッティ・アトランティーク。当時のコレクションで手元に残ったのはこれ1台だけ。

しかし私のミニチュアカー蒐集は、高校生になると熱が引くように終わりました。その理由はいろいろでしたが、第一はプラモデル作りに本腰を入れるようになったことです。プラモデルも小学生になってすぐに作り始めましたが、中学3年の時に缶スプレー塗装を始め、その面白さに夢中になったのです。また当時のミニチュアカーの品質の低さに嫌気がさしたということもあります。
高価な輸入品でも、当時の製品は今のものとは比較にならないほど塗装や仕上げが雑で、グリルやバンパーが曲がっていたり、ボディの角の塗装が剥げているのも当たり前でした。開封した時はキレイでも、ドアを開けるとボディの塗装がベロッと剥がれてしまう、なんてことも。1ケ月分のお小遣いの大半をつぎ込んだ挙げ句ガックリ、なんてことに耐えられなくなってしまったのです。

大学生になった頃には、買い集めたミニチュアカーはすべて押し入れに仕舞い込まれ、やがて状態の良いものは買取店に売り払われてコンパ代に化けてしまいました。こうして、私の最初のミニチュアカーとの蜜月は終わりを告げたのです。

(2)ミニチュアカー蒐集からプラモデル作りへ

私が初めて自動車のプラモデルを作ったのは、小学校1年生の時でした。それまで私は紙の工作が大好きで、画用紙を切り抜いてさまざまなものを作っていましたが、ある日、大発見をしたのです。右から見たクルマと左から見たクルマを描き、その間を四角で繋げ、切り抜いて折り曲げると立体のクルマになる!
この原始的ペーパークラフトを毎日飽かず作り続け、家中が紙のクルマだらけになった頃、母が「もっと本物っぽいのがあるよ」と言って、近所の駄菓子屋で買ってくれたのが自動車のプラモデルでした。たしか日東の1/28のコスモスポーツだったと思います。たちまち私はこのプラモデルという新しい遊びに夢中になり、ミニカーと並行してプラモデルにもお小遣いを投入するようになりました。
母は50年以上たった今でもこの時のことを後悔しているらしく「あの時あれを買ってやらなきゃアンタはもっと真っ当な仕事に就いていた筈だ」なんて言ったりします。今さら手遅れですよ(笑)

しかし、当時の私にとってプラモデルは遊びで、趣味とは言えませんでした。なぜなら、あの頃の駄菓子屋で売っていた安価な自動車のプラモデルときたら、ボディは上下モナカ合わせでモールドはダルく、インテリアは板一枚で胸まで水没したドライバーがくっついているだけ。1970年代初頭の日本の自動車プラモデルの多くは、模型ではなく組み立て玩具でした。ただ組み立ててゼンマイで走らせて遊び、飽きたら捨ててしまう、そんなもの。ミニチュアカーのように飾って眺めて楽しめるものではなかったのです。

 

 ニチモ1/28ニッサン・シルビア。デッドストックを最近入手して作ったもの。相当あちこち修正を入れています。当時のチープキットの中では、これでも非常に出来が良い方でした。

 

それが一変したのは中学の終わり頃。70年代中盤には、オオタキLSニットーニチモなどのメーカーが、モーターライズながらスケールモデルと言える内容を持った良質な自動車のプラモデルを数多く発売するようになっていました。
ある日、私は藤沢駅南口前の名店ビルの6階に、大きな模型のお店を発見したのです。そこは大人の模型愛好者向けの専門店で、ガラスケースには店員や常連客の手で美しく塗装された完成品がズラリと並んでいました。そこで初めて、私はプラモデルに色を塗るということを知ったのです。

今となっては名前も思い出せないその店で、親切な店員さんに缶スプレー塗装の仕方を教えてもらい、高校に上がる前の春休みに、私は初めてプラモデルに色を塗りました。たしかLSのフェアレディZ 2by2だったと思いますが、おそるおそる吹き付けたスプレーのメタリックブルーが少しずつボディに乗っていき、ツヤツヤの塗膜になっていくのを目の当たりにした、あの感動…一生、忘れることは無いでしょう。

 

 グンゼのトライアンフTR7。このキットで初めて、模型を塗装して仕上げる醍醐味を知りました。

初めてボディだけでなくインテリアやシャシーなど全ての部品を塗装して組み上げたプラモデルは、グンゼ(現GSIクレオス)の1/24のトライアンフTR7でした。今考えると、高校生にしてはやけにシブいチョイスですが、このちょっとブサイクなスポーツカー、当時も今も大好きなのです。
グンゼのキットはトリコロールのラリー仕様でしたが、私は英国車らしいグリーンのロードカーに仕立てました。サイドシルやバンパーはエナメル塗料の筆塗りで黒く塗り分けました。窓枠のマスキングは何度も失敗しましたが、エナメルを溶剤で拭き取っては塗り直し、最終的には自分で満足がいく程度に仕上げることが出来ました。

これで自信をつけた私は、オオタキのメルセデス・ベンツ450SLCポンティアック・ファイアバードニットーのポルシェ928マルイのブルーバード910タミヤの初代ソアラなどを立て続けに作り、模型に色を塗る楽しさにどっぷりハマっていきました。

 

オオタキのメルセデス・ベンツ450SLC。当時の1/24カープラモではけっこう高級な部類で、エンジンが再現され、ドアも開閉します。現在でもマイクロエースから発売されています。

そして私は気付いたのです。高価なミニチュアカーを買うたびに、部品の組み付けのズレを気にしてバラそうとして部品を壊してしまったり、塗装の剥がれを直そうとタッチアップしてかえって汚くしてしまったり、そんなことで一喜一憂するよりも、最初から塗装して作るように出来ているプラモデルをキレイに仕上げて、ミニチュアカーのように集めればイイじゃないか、ということに。

それ以後、私は本腰を入れて自動車のプラモデル作りに没頭するようになったのです。

(3)小説家の夢破れて模型職人の道へ

ところで趣味の話からちょっとそれますが、私は子供の頃から本も大好きでした。小学3年の時には近所の図書館のこども世界文学全集を全巻、1年ちょっとで読破したくらいです。中学に入ると親が小遣いとは別に本代をくれるようになったので、文庫本を手当たり次第に読みあさりました。特に小説が好きで、古典からミステリー、時代もの、SF、怪奇ものまで、なんでもござれでした。

それだけ好きだと、自然に読む方から書く方に行きたくなります。中学1年の夏休みの宿題で、翻訳冒険小説のパクリみたいな長編を書き上げたのをきっかけに、私は本気で小説家を目指すようになりました。

大学ではSF研究会に所属して同人誌に小説を載せていましたが、3年の時に有名SF専門誌の短編小説コンペで第一席を取り、初めて小説が活字になりました。編集部に原稿を持ち込むようになった私は、これで小説家になれると思い、大学をやめてアルバイトしながら小説に専念(今で言うフリーターですね)…しかし、人生そうそう甘くはありません。その後は書いても書いても採用されず、25歳の時、才能の限界を悟って自分で見切りをつけました。

 

人生の一番大きな目標を失った私は、じゃあ2番目に大事なものはなんだ?と自問しました。その答は「プラモデル」でした。そして就職情報誌で「工業用プラモデル制作会社」を見つけたのです。ここで言う「プラモデル」とは、工業製品の開発過程で作られるモックアップや機能試作品のことですが、プラスティック製の模型ですから、プラモデルには違いありません。

東京都板橋区にあったその会社で、私はABSやアクリル、PPなどの樹脂の加工や塗装の技術を身につけて、主に化粧品の容器や電化製品のモックアップを作りました。最先端の工業製品の開発に関わる仕事は面白く、やり甲斐がありました。安定した収入を得てマイカーを持つことも出来て、楽しく過ごしていました。

 

初めてのマイカー、ホンダ・トゥディXTi。能登のなぎさドライブウェイにて。

2台目のマイカー、ニッサン・サニー1.8GT-S。岡山の湯郷温泉にて。

しかし入社して5年目に、会社が新社屋を建てて埼玉県の戸田に移転することになりました。移転後もしばらくは頑張って通いましたが、藤沢から戸田までは片道2時間かかり、体を壊しそうになりました。家庭の事情で家を出ることが出来なかった私は、独立起業を思い立ちました。いわゆる「脱サラ」です。

 

その少し前、自動車雑誌の記事で「プロモデラー」という職業があることを知りました。個人のコレクターや企業などの依頼で、プラモデルやレジンキット、メタルキットなどを完成品に仕立てる仕事です。社会人になってからも趣味のプラモデル作りを続けていた私は、仕事で身に付けた技術を応用すれば、普通のモデラーとは違うレベルの自動車模型を作れるはずだ、と考えました。
 しかし、無名の1モデラーがいきなりプロを名乗っても、仕事があるはずもありません。そこで、まずはプラモデルやミニチュアカーを扱う店を開業し、そこで自分で作った完成品を売ろう、と考えたのです。

 

イタレリ1/24 フェラーリ250カリフォルニア。当時の自分の技術の全てをつぎ込んで制作しました。

こうして1991年の夏、藤沢市湘南台に「びあるべえろ」という自動車プラモデルとミニチュアカーの専門店をオープンしました。開業資金は貯金と親からの出資でまかない、小さいながらも一国一城の主になりました。
自動車模型専門店は当時はかなり珍しく、雑誌の広告だけで遠くからもお客さんが来てくれて、商売は当初はけっこう順調でしたが、折しもバブル崩壊後の不況真っ直中。店の近くにあった自動車工場の社員寮が閉鎖になると、街からぱったり人がいなくなり、客足は目に見えて減りました。このまま無理に続けていれば借金を背負うことに…1993年の初春、残念ながら店を畳む決断をしました。

 

自動車模型専門店「びあるべえろ」。店名はアバルト・ビアルベーロからとりました。

あえなく失敗した脱サラ開業でしたが、人生はあざなえる縄の如し、なんて言いますね。その短い間に、ふたつの大きな良いことがありました。ひとつは地元に模型仲間がたくさん出来たこと。中学以降、市外の学校に通っていた私は、地元にほとんど友達がいませんでしたが、店の常連さんたちと模型サークルを作り、それが現在所属しているS.E.M.湘南モデルカー愛好会になりました。

もうひとつは、このサークルのメンバーを通じて、自動車模型専門誌「モデル・カーズ」の初代編集長・平野克己氏をご紹介いただいたこと。そのおかげで同誌の作例や記事のお仕事をいただけるようになりました。有名な模型誌のモデラーだということで完成品の制作依頼が来るようになり、やがて模型作りだけでなんとか生計を立てられるようになりました。

こうして私はプロフェッショナルな模型製作者「プロモデラー」自動車とその模型についての記事を書く「模型ライター」になることが出来たのです。

(4)プロモデラー・模型ライターという仕事

現在、私は月刊のミニカー&プラモデル専門誌「モデル・カーズ」誌(ネコ・パブリッシング刊)の巻頭特集の作例をほぼ毎月(たまに休みますが)制作しています。最初の作例は1994年ですから、もう26年もやっています。作例の車種は自分で提案するものもあれば、編集部から指定されるものもあります。ただ完成品を作るだけでなく、制作過程を詳細に撮影してレポートを書き、グラビアページの解説文も自分で書いています。スタジオ撮影には関わらないので、どんな写真になるのか、ゲラを見るときはドキドキです。

また同誌には1ページのコラム「プロモデラー千夜一夜」を連載しています。内容は自動車と自動車模型に関することならなんでもOKということで、完全にこちらにお任せです。かれこれ15年も続いている連載ですが、毎月3500文字のコラムを纏めるために、常に頭の片隅のセンサーを起動し、ネタを探してアンテナを伸ばしています。読者の方から「いつも一番最初に読んでます」なんて言われると、嬉しいかぎりです。

 

「モデル・カーズ」誌と「モデルアート」誌。

もうひとつ、スケールモデル全般を扱う月刊総合模型誌「モデルアート」(モデルアート社刊)にも1998年から寄稿しています。こちらでは当初は新製品レビューを担当していましたが、20年ほど前から、1/43レジン/メタルキットの連載「43ガレージ」1980~90年代の国産車の連載「ネオヒストリックガレージ」をやってきて、現在は1970~2000年代の外国車をカスタマイズ(改造)する「ヤングタイマーガレージ」を連載中です。

毎月、自分で選んだキットをひとつ作り、制作過程の写真から重要な12カットをセレクトし、本文の他に見出しやキャプションも自分で書いています。こちらもスタジオ撮影には立ち会わないので、やはりゲラの上がりをドキドキ待つことになります。展示会で、記事を参考に作品を作りました、なんて言われると、ライター冥利に尽きますね。

連載とは別に、年に数回、新製品キットのレビューや巻頭特集の実車解説なども書いています

 

新紀元社の単行本。この他にもいろいろ出しています。

この2誌の他に、新紀元社から自動車模型の作り方や楽しみ方を解説した単行本を年に1冊くらいのペースで出しています。自動車専門誌やグッズ系雑誌、カルチャー雑誌などからプラモデルやミニチュアカーの記事を依頼されたり、プロモデラーという珍しい職業についてのインタビューをされることもあります。

紙媒体以外に、CATVBSYOUTUBEの番組にも出演しました。CATVの番組を再編集して制作されたDVDが現在も発売されています。 

 

自動車のプラモデルを実際に作りながら解説したDVD。イメージメカニックLLPから出ています。

記事を書く際に心掛けているのは、模型を作る技術を判りやすく伝えることと、読み物として面白いこと。そのためには読みやすい文章で、かつ論理的・科学的であることが大事だと考えています。模型作りを精神論で語らない、ということも肝に命じています。「辛くても一生懸命頑張ればキレイに出来る」とか「好きなモノを作るなら根性と気合いを」みたいな論調はマニアの自己満足に過ぎません。楽しいはずの趣味を、修行や苦行に変えてしまえば、初心者はどんどん離れ、ジャンルが衰退してしまいます。

まだ模型を作ったことのない方々や初心者の皆さんには、自動車模型の楽しさを伝えること。もうすでに模型を趣味にしている皆さんには、ともに楽しみ、さらに深い楽しみを知ってもらうこと。それが私の役割だと考えて記事を書いています。

文章を書く技術に関しては、かつて小説家を目指して奮闘したことが、今になって大いに役に立っていると思います。人生、無駄になるものなんて何ひとつないんですね。

 

そのほか、個人のコレクターの方々の注文制作品や、企業の広告用・販売促進用などの完成品も制作しています。模型メーカーのカタログ撮影用サンプルもたまに制作することがあります。これらについては、クライアントの求めるものを正しく把握した上で、美しく仕上げること、壊れにくく長持ちするように作ることを大切にしています。
また、仕事で作るものであっても、私自身が楽しんで作ることも大事です。義務感で作るよりも楽しみながら作る方が、良いものが出来上がるのは、当然と言えるかも知れません。

(5)ミニチュアカーとの再会

高校生の時にミニチュアカー蒐集を卒業してから10数年、私はほとんどミニチュアカーを買わなくなっていました。唯一の例外は1999年からずっと乗っている愛車メルセデス・ベンツ190Eで、これだけは完成品のミニチュアカーを買い集めましたが、他の車種のミニチュアカーには全く感心がわきませんでした。

 

旧車イベントで約30年ぶりに再会したホットウィール。

ホットウィールの日本車はカラーも造形もハイセンスだ。

しかし1995年頃、とあるヒストリックカーのイベントに出かけ、お土産を求めて販売テントを回っていたら、カラフルなブリスターに入った小さなミニチュアカーたちが目に飛び込んでいきました。それは子供の頃に遊んでいたホットウィールでした。
当時は正規輸入が途絶えていて、ミニカーショップやおもちゃ屋さんではまったく見かけませんでしたが、独自に輸入している業者さんがいることを、そのとき初めて知ったのです。珍しさと懐かしさから数台買い求めたのがきっかけで、その後はイベントに行くたびにホットウィールを探しまわるようになりました。

ホットウィールの魅力はディフォルメやカスタムのセンスがずば抜けていること。デザイナーがみなマニアックなクルマ好きだというのが頷けます。最近は日本車のリリースが多く、アメリカン・テイストでカスタムされたスカイラインフェアレディZなど、デザインの良さに唸らされますし、模型のカスタマイズの参考にもなっています。

 

トミカリミテッド・ヴィンテージ。

トミカリミテッド・ヴィンテージにもひところハマりました。素朴なホットウィールとは対照的に、精密で繊細な作りが魅力のこのブランドは、子供の頃に親しんだシュコーの1/60シリーズに近い感じがします。1970~80年代の国産車にはたくさんの思い出がありますが、最近はリリースがあまりにも多くて追いきれなくなり、好きな車種に絞って買うようにしています。

最近のマイブームはノレブの3インチシリーズです。これまで3インチにはあまり無かったヒストリックなフランス車やコンセプトカーがいろいろ出てきて楽しいんですが、入荷数が少なく店頭でお目にかかる機会はあまり無いので、逃さないように通販で予約を入れています。この買い方は実はちょっと不本意でして、本当はこの目で見て買いたいんですけどね。

 

ノレブ3インチのフランス車。精密過ぎず適度に素朴な作りが魅力的。

さらに最近どっぷりハマっているのが、ガチャのミニチュアカーです。コインを入れてガチャッと回すと、カプセルに入った小さなオモチャが出てくる、アレ。ここ数年、アオシマトイズキャビンなどのメーカーが、大人のコレクター向けのミニチュアカーをガチャに入れるようになりました。プラ製で価格はだいたい300~400円ですが、けっこう精密に出来ていて、大人の鑑賞に堪える作りなのに驚かされます。

ガチャのミニチュアカーは同一車種が5~6色のシリーズで、どれが出るかは判りません。好きな色が出るまで何回も回してしまい、結局洒落にならない出費になります。コレクターの心理を上手く突いたシステムですね。まさか大人になってからガチャにハマるとは思いませんでした。これは子供の頃に親にガチャを禁止されていた反動かも知れません…

コロナウィルスの蔓延でガチャコーナーが軒並み閉鎖されてしまったこの4月5月は、本当に辛かったです。

 

ガチャのミニチュアカーやトミカなど。だんだん収拾がつかなくなってきました(笑)

(6)現在とこれから

私はとにかく自動車全般が好きで、この世に存在する自動車すべてに触れたいと思っています。自動車100年の歴史の全てをこの手の中に納めたい、というのが私の願望です。ですから、特にこの車が好き、このブランドが好き、というものはあまり無くて、自動車ならすべてが愛おしいと感じます。

旧車のイベントに行くのは好きですが、新しい車も好きですし、国産車も外国車も好きです。ドイツ車もイタリア車もフランス車も英国車も、アメリカ車も好きですし、旧共産圏や中東、南米などの車にも興味があります。

カタチの好みもあまりありません。曲線美豊かなスタイルの車も好きですが、シャープな面と線で構成されたスタイルの車も同じように好きです。美しくカッコ良いクルマは好きですが、あまり美しくない奇妙なカタチの車も好きだったりします。なんでこんなカタチに?と、そのクルマの開発過程を紐解くと、思わぬ発見があったりして、それもまた楽しいのです。

 

そんなわけで、3インチ・ミニチュアカーの蒐集には特にテーマを決めず、専門店やイベントなどで一期一会の出会いを楽しんでいます。深追いし過ぎない、というのが私のスタンスで、無理にシリーズ全種類を集めようとは思いません。見つからないものがあれば、見つからないままでも良いし、出会えればラッキーということで、肩の力を抜いて楽しんでいます。

 

自動車模型作りは、私にとって仕事でもあり趣味でもありますが、趣味の方はあまりにも興味の範囲が広く、手当り次第に作っていると収拾がつかなくなるので、毎年テーマを決めて作るようにしています。

2020年のテーマはトヨタ車で、前半で現行プリウスA60セリカスープラスポーツ800AW11 MR2と、4台の新旧トヨタ車を作りました。仕事が終わった後、夜の趣味の時間だけで作っているにしては、なかなか良いペースです。年内にあと2台くらいはトヨタ車を作りたいですね。タミヤの最新型スープラをトリにしようと思っています。

 

ニチモのトヨタ・スポーツ800とフジミのMR2。

そろそろ50代も終わりにさしかかっている私ですが、はたしてあとどれほどの間、今と同じペースで模型作りを続けられるでしょうか。そんな不安を感じつつも、まああんまり先のことを考えても仕方が無いな、とも思います。これまで通り肩の力を抜いて、自動車と自動車の模型を楽しみながら生きていきたいと思っています。

1/1スケールの方は、1999年に7年オチで買ったメルセデス・ベンツ190Eに、まだまだ乗るつもりです。「安い中古車にずーっと乗っているといつの間にか貴重なヒストリックカーになっている作戦」敢行中です。

 

愛車メルセデス・ベンツ190E「べんぞー」箱根ターンパイクにて。1992年式で28歳。まだまだ元気に走ります。

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北澤 志朗
自動車模型専門のプロモデラー/模型ライター。工業試作技師・模型店経営を経て1994年より現職。「モデル・ カーズ」「モデルアート」両誌で作例を制作。自動車模型の楽しさや製作テクニックを伝える著作多数。仕事だ けでなく趣味でも自動車模型を制作し、S.E.M.湘南モデルカー愛好会の代表を務める。 ウェブサイトhttps://sites.google.com/site/littlewheel2008/
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