カートイワークス グランプリ

【第7戦 カートイワークス グランプリ】石黒智樹 様(前編)

フリーランス編集者・ライターの石黒智樹(いしぐろともき)と申します。以前所属していた出版社「ネコ・パブリッシング」の先輩、山田剛久さんからのご紹介で、ここに寄稿させていただきます。1968(昭和43)年生まれの51歳です。私が歩んだクルマ・模型人生と特に好んでいる劇中車のお話をさせていただきます。

私の最初のミニカーであるホットウィール「レヴァーズ」の「プレイングマンティス」

■マイ・ファースト・ミニカーはホットウィール

私が幼少の頃は、よく家族でマイカーの「トヨタ・カローラ2ドアセダン(TE20」でドライブに行き、すれ違うクルマの車種を憶えるという遊びをしている普通にクルマ好きの子どもでした。物心付くか付かないかの頃から、親に怪獣ソフビで有名な「ブルマァク」や現在はハズブロ傘下となっているアメリカの「トンカ」などの乗り物のおもちゃを買い与えられていました。

子どもの頃は“カマキリチョッパー”と呼んでいました

そして、多くのクルマ好きの子どもと同じく、より精巧なミニカーへ、特に私たちの世代は1970にデビューした国産ブランドの「トミカ」へと行くはずなのですが、私のおぼろげな記憶では、それが「ホットウィール」(当時はホットホイール)だったのです。日本国内では「ミニカ」というブランド名で販売されていたこともありました。

ホットウィールのカタログから転載。なぜか小屋から電動でミニカーが飛び出す!

鮮やかなオレンジのトラックレールにパープルのジョイントでコースを作り、万力のようなパーツで机に固定し、高い所から下へ一気に走らせる、といった遊びを、いとこたちと一緒に延々としていた気がします。

サイドカーのネジを手動で巻くとゴム動力で走ります

また、強烈に記憶に残っているのが「レヴァーズ」。ホットウィール1ラインなのですが、バイクに付いているサイドカーのネジを手動で巻くとゴム動力で走るというものです。親のセレクトなのか自分が欲しがったのかは憶えていませんが、それが写真の「プレイングマンティス」でした。私はそれを“カマキリチョッパー”と呼び、前輪を外して鎌で他のおもちゃを襲ったり、サイドカーだけをミサイルのようにぶつけるなど、創造力を働かせて遊んでいました。

他にも、ホットウィールに多大なる影響を受けた時期の「マッチボックス」の「ランボルギーニ・マルツァール」や「アルファ ロメオ・カラーボ」なども憶えていますが、トミカは「トヨタEX7」と「マツダRX500」だけ買ってもらったと思います。友達の家に行くとどこへ行っても大抵ゴムホースが付いている「バキュームカー」があったのは憶えています。

■スーパーカーブーム到来

1971に「帰ってきたウルトラマン」「仮面ライダー」の放映が始まり、第2次怪獣・変身ブームがやってきます。それに加えて1972年に「マジンガーZ」の放映が始まり超合金ブーム、1974年に「宇宙戦艦ヤマト」の放映が始まりアニメブームと、世の中はわけがわからない大カオス状態となっていて、それにどっぷりと浸かっていた私は、クルマからやや遠ざかっていました。

そこへ1976年頃やってきたのが、スーパーカーブームです。このコーナーで前出の高桑さん陰山さんも書いていますが、まずはスーパーカー消しゴムからやってきたと思います。スーパーカー消しゴムを三菱のボールペン「BOXY」ではじき飛ばしてレースをするのが小学校で大流行、レベルカラーで色を塗ったり、タイヤにセメダインやホッチキスを付けたり、挙句の果てには灯油に浸けて成分の塩化ビニールを硬化させ、飛距離を争っていました。このことが、私のカスタム魂に火を付けたように思います。ちなみに、みんな窓はシルバーで塗っていたのですが、これは他の地域でも同じなのでしょうか?

その頃、トミカで外国車シリーズのFナンバーが始まり、スーパーカーのラインナップも多かったので、自分のお小遣いで購入するようになりました。やはり、これもつるしでは飽き足らず、色を塗ったり、プラ板でウイングを付けたりしていました。

プラモデルもだいぶ作りました。マルイのシザーズドアのステーが金属製だった名作「ランボルギーニ・カウンタックLP500」や「ポルシェ・カレラRSRターボレーシング」、アオシマがなぜかやたらに推していて、他のメーカーからもいろんなミニカーやプラモデルがリリースされていた「マセラティ・ブーメラン」やなぜかスーパーカーが合体する「合体シリーズ」、イマイのクリアボディに単3電池5本を輪ゴムで止めるというやや荒っぽい仕様の「競技用スペシャル」、日東のなぜか1/28という中途半端なスケールの「サーキットの狼シリーズ」などなど、あらゆるプラモデルを作り倒していました。

そして高学年になると、タミヤの「電動RCカーシリーズ」に行くわけです。まずは価格が安い「ラルトRTハートF-2」から始めて、パーツをコツコツ買い集めて、「ランボルギーニ・カウンタックLP500S」に改造、ブラックモーターを積んだりもしたのですが、お金持ちの子は、難なく「カンナム・ローラ」や大人が買うような青柳製などのマシーンを買って投入してくるので、レースで負けて悔しい思いをしながら「バギーチャンプ」に逃げる、というようなことをしていたのです。

ちなみに、自動車の知識は、この頃に買ってもらったコロタン文庫「自動車全百科」(小学館)で学びました。この本、表紙こそブームを意識して「ランボルギーニ・カウンタックLP400、巻頭グラビアは最新の「ポルシェ928(デザインは元オペルのデザイナーであるラピーン、などとコアな解説がされています)

だったりするのですが、自動車の基礎知識がわかりやすく解説されているだけでなく、世界の自動車をとにかく網羅して、「フォルクスワーゲンK70や「AC3000ME」「シトロエンLNなどかなりのマイナー車まで掲載されており、ボロボロになるまで繰り返し読み込んでいました。

お気に入りの「ポンティアック・ファイヤーバード・トランザム」と共に荒野の新横浜にて

写真は、当時住んでいた家の近くの新横浜駅付近にあったクルマ屋の前。スーパーカーブームの時代に、「ポンティアック・ファイヤーバード・トランザム」と共に写っています。後に説明しますが、実はこれが自分の本音だったのです。

初めてのマイカー「フィアットX1/9」。バブル時代の恥ずかしい写真

■初めてのマイカーはフィアットX1/9

1978には「スター・ウォーズ」が上陸、1979に「機動戦士ガンダム」が放映開始、1980からはガンプラブームとなり、私もそれらのブームに乗っかって、周りにクルマが好きな人間もいないこともあり、またまたクルマから遠ざかってしまいました。

しかし1988、大学に入学すると、初めてのマイカーを買うことになります。当時は愛知県に住んでいて、交通が不便で、どこに行くにもクルマという自動車偏重地域だったこと、またバブルということもあり、多くの大学生が親にクルマを買ってもらうというとんでもない時代でした。

周りは、「トヨタ・カリーナED」「ホンダ・プレリュード」「日産シルビア」など、流行りの“デートカー”を買ってもらっており、私もトヨタ派である父親に「トヨタ・コロナ・クーペ」なら買ってやる、と言われておりました。

一瞬心が揺らぎましたが、いや待てよ、俺、スーパーカーが好きだったんじゃないか?自分が好きなクルマは、「ランチア・ストラトス」「ランボルギーニ・ウラッコ」「フェラーリ・ディーノ308GT4……そうです、よく考えてみたらマルチェロ・ガンディーニが好きだったのです。

と、なると、今買えるガンディーニと言えば、もう「フィアットX1/9」しかないだろ!というわけで、「ガイシャのチューコシャなんて!」という親の猛反対を押し切り、自分のお金で買うからいいじゃないか、とローンを組んで、バイトにいそしんだのであります。

それからは、なんだかクルマ熱が盛り上がってきて、勢い体育会系自動車部に入部してしまいました。その頃といえば、先輩たちはTE71KP61AE86、同級生たちはAE92バラードサイバーなどで、ジムカーナやラリー、フィギュア、峠を走るわけですが、私ひとりものすごく浮いておりました。

しかも、1980年モデル120万円だったX1/9は、突然エンジンが掛からなくなったり、キャブが調子悪くなったり、オーバーヒートしたり、マフラーが落ちたりと、故障が多かったのですが、異常に低い座高とミドシップ特有のシャープなハンドリングは、部員や同級生、バイト先の仲間に、呆れられながらもちょっと運転させてくれなどとおもしろがられていました。

ポルシェの素晴らしさを一部でも教えてくれた「ポルシェ924ターボ

■次期戦闘機はポルシェ924ターボ

そんなX1/9とも突然のお別れがきました。交差点でダイハツ・シャレードに突っ込まれてしまい、全損。その保険金を握りしめ、スーパーカー(リトラクタブル)ライトでオーバーフェンダーが魅力的だった「ポルシェ944」を買いに行きました。しかし、944は中古といえども300万円オーバーとまだ高く、お店の人に180万円の「ポルシェ914」を薦められましたが、「これじゃあX1/9と変わらないな」と思い、200万円で1980年モデルの「ポルシェ924ターボ」マニュアルを買いました。ちなみに、「ポルシェ911」は大人の乗り物であり、子どもは手を出してはいけないと畏敬の念を持っておりました。しかし、924ターボを乗っていて、ドアを閉めた時やシフトリンケージの剛性感、高速走行時の安定感にはさすがポルシェと感心しましたが、やけに重苦しくて、正直、私には向いておらず、あまり心が躍りませんでした。

■ネコ・パブリッシングに入社

そうして大学を卒業、就職するにあたって、いろんな企業の試験を受けましたが、クルマが好きで雑誌が好き、という単純な理由で、当時愛読していた「カー・マガジン」と「デイトナ」を発行しているネコ・パブリッシングに、1992に入社しました。

上京してアパートを借り、最初の給料をいただき、改めて認識したのが、「お金がない!」そりゃそうです。敷金、礼金、引っ越し費用、最初の給料は41からなので半分しかない。そこで、ポルシェ924ターボカー・マガジンの個人売買欄「BAZAR」で売るわけです。で、クルマのない生活は考えられなかったので、次のクルマを探すことに。

■プジョー5042台乗り継ぐ

そこは趣味の出版社、周りに面白いクルマがいくらでもありました。とりあえず20万円と安かったので、総務部長から1980年モデルの「プジョー504D」を譲っていただきました。ディーラーの西武自販物で、ディーゼル・エンジンに3AT、右ハンドル。当初、4ドア・セダンはあまり興味がなかったのですが、これが、大振りでフカフカなソファのようなシート、ストロークのある船のような乗り心地で最高でした。後に友人がぶつけてしまい、修理するくらいならそこら辺にドナーがあるから乗り換えた方が安い、という贅沢な状況で、2台目に乗り換えることになります。

しかし、2代目の504はオイル漏れを起こしており、継ぎ足しながら気を付けていたのですが、路上でエンジンブローを起こしストップしてしまい、御臨終。またまた次のクルマを探すことに。

504同様、とにかく乗り心地が素晴らしかった「プジョー604

■高級車プジョー604

すると、カー・マガジンBAZARに出ていたのが、1979年モデルの「プジョー604」。当時、「ブルータス」のクルマ特集で、ミック・ジャガーのパリでの足、と書かれていた高級車。これもディーラーの西武自販物。それが、ボンネットの塗装がひび割れていることもあり30万円で売りに出されていたため、早速静岡まで見に行き、その場で即決し購入しました。

やはり、504の延長上にあるシートと乗り心地の良さ、PRVプジョールノー・ボルボ共同開発)の2.7リッターV6エンジン(アルピーヌV6ターボデロリアンと同じ)は、プライマリー、セカンダリーの2つのキャブを有し、低速から高速までなかなかパワフルなものでした。

これまで所有した唯一の国産車「スバル・アルシオーネ2.7VX

■スバル・アルシオーネが唯一の国産車

そこへ、会社の先輩から1987年モデルの「スバル・アルシオーネ2.7VX」を30万円で買わないか?というオファーが来ました。このクルマ、エンジンがフラット6、前後トルク配分自動制御というポルシェ959を前後逆にしたメカニズムと言われており、なんてったってスーパーカーライトの2ドア・クーペということで思わず2つ返事で買ってしまい、車検の切れた604は同僚にタダであげてしまいました。

乗ると、エアサスのフワフワとして接地感に乏しい乗り心地。しかし、それがアメリカンでおおらかなものだったので、嫌いではありませんでした。ウエッジシェイプの古臭いポリゴンのようなボディや左右非対称のステアリング、その両側に備わるサテライトスイッチなどの変わったデザインも気に入っていました。ただ、その後エアサスがぶっ壊れてシャコタンになってしまい、修理にアッセンブリー交換で40万円掛かったのは痛かったです。これが今まで所有した唯一の国産車でした。

■趣味のクルマを共同所有

当然クルマ好きが集まっているネコ・パブリッシング。ひとりでクルマを複数台持つのは当たり前。しかし、金銭的に心許ない若手は、よく趣味のクルマを共同所有していました。

社内の鉄道雑誌「レイルマガジン」編集長から、知り合いが1975年モデルの「フォルクスワーゲン・タイプ2 T2(レイトバス)」をタダであげる、という話が来て、賛同した5人でお金を出し合い、車検を取って駐車場を借り乗っていました。しかし、トランスポーターのパネルバンで後ろが見えない、遠くの駐車場までいくのがめんどくさいなどとみんなだんだん乗らなくなり、別の知り合いにタダであげてしまいました。

また、カー・マガジンの広告に閉店処分で1971年モデルの「ルノー12ゴルディーニ」が格安で販売されており、同僚と一緒に購入、ヒストリックカーレースに出るのだ、と長期レポートまで連載したのですが、初めてのサーキット走行でメタルがいってしまい、資金不足でその後は放置となってしまいました。やはり、クルマはひとりが愛情を注いで維持しないとダメなんだということを思い知りました。

このように、ネコ・パブリッシングに入社したおかげで、趣味のクルマに関しては非常に恵まれた環境であり、お金がなくても楽しめました。そうして過ごす内に、ほぼヨーロッパ車に乗っていた私にも嗜好の変化が現れ始めました。そのお話の続きは後編で。

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石黒 智樹
1968年、神奈川県生まれ。1992年、大学を卒業後、出版社「ネコ・パブリッシング」に入社し、「カー・マガジン」編集部などに在籍。2007年にフリーとなり、おもちゃ雑誌「クアント」編集部に参加。自動車・模型関連だけでなく、「スター・ウォーズ」などの映画、「ウルトラマン」「ガンダム」などの特撮・アニメ関連の編集・執筆も手掛ける。愛犬は、「マッドマックス2」に登場するオーストラリアンキャトルドッグ「ザ・ドッグ」の1/1プロップレプリカ。
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